昭和54年02月11日 朝の御理解
御理解 第8節
「子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。無信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。」
ただおかげを受けてくれよ、とは仰っておられません。信心しておかげを受けてくれよ、と仰るのです。それに信心はせず、神様の言うて下さることは聞かず、そしておかげを下さい、おかげを下さいと言う様な人が多いのには、もう驚くばかりです。皆さんどうでしょうか。どうもあれもお願いします。これもお願いします。お願いすることは沢山ある。そりゃお願いしてもいい。親であり子であるのですから。ね。けれどもここにはその、信心しておかげを受けてくれよとあるのです。ね。
ですから信心を頂いて、そしておかげを受けなければいけません。私は昨日お知らせに「北町奉行、南町奉行」ということを頂いたね、江戸時代にあの奉行所が、大きい奉行所が二つあったわけですね。北町奉行とそれからまぁそれ、それの事らしいんです。北町奉行ね。ですから何時もその北町奉行と南町奉行というのは、何とはなしにこう睨み合い、ね。よくあの何ですかね、大岡越前守とか、銭形平次とかというテレビを見られると、必ずそれ出て来ます。南町、ね、北町奉行と言った様な。
あれは片一方だけの奉行、南町なら南町だけしかなかったら、良かろうようにあって、良くないんですね。いわばその足元を見られ、見る者もおらないし、いうならば、いうなら、お互い欠点の、まぁいうなら探り合いと言った様な事もございませんから、いかにも円満にいきそうだけれどもです、ね、その足元を見られたり、いうならば、良く無い事の探り合いなんかが奉行所内で、そのあってはならんのです。為に、やはり足元も用心しなければならない。
又北町奉行であるなら、南町奉行から突っ込まれるようなことが、あっちゃならないという精進を致します。私共人間というものはそんなもんだ。皆さんがね、本当に世の中に難儀というものが無かったらさぞ良かろうと思うでしょう。ね、その難儀のおかげで、人間が人間らしゅうなって行けれるのです。だからそれは、だから難儀ではないとお互いが分からにゃいけんのです。私が頂いておるみ教えの中に「めぐりが大きければ大きいだけ、おかげも大きい」と仰る。めぐりがある、難儀が大きい。
もうそれこそ人並み以上の苦労をしなければならない。それが一度信心にならせて頂く。ね、そこから人並み優れたいうならば修行も出来るようなもの。だから力を受ける。だからおかげも又大きいということになるのです。ね、ですから難儀がなくて、もう私だん仏様やら神様ありゃいわんでもという程しの人ほど、実をいうたら哀れなんです。ね、あの世に持って行く何物もない。あの世には、持って行けるものは御神徳だけ。又はこの世に残しておくというても、間違いのない残せれるものは御神徳だけ。
難儀様のおかげで信心させて頂きました。おかげで力も得ました。徳も受けました。おかげであの世で、いうならば徳の世界にも住むことが出来る、光明世界に住むことも出来る。しかもそれは、この世にも残しておけるというほどしのものなのですから、ね、皆さんは一つ「信心しておかげを受けてくれよ。」というところをね、しっかり頂いてのおかげじゃなからなければ、天地に借金をするようなものです。ただおかげをね、信心をせず、ね、教えを身に付けようともしないで、ただお願いします。
お願いしますという信心では、金光教の信心、教祖が教えらえる信心ではないのです。ね、様々な難儀を感じる時に、その難儀の中身というものが、分かってくるということは、そのまま神様のお心が分かってくるということにつながります。神様のお心が分かる。どういう風に分かるかというと、もうこの神様ばかりは、ただおかげをやりたいの一念に燃えておられる神様だ。立てばあっ這えば立て、立てば歩めの親心である。その親心を持って私共に関わり合いを持とうとなされる神様であると同時に。
その関わり合いがいよいよ良い関わり合いにならせて頂いて、ね、親のことは子が頼み、子の事は親が頼み、あいよかけよで立ち行く。頼み合いいたせと仰る信心の、お道の信心の内容が分かってくる。信心する、神様の頼みの内容が分かってくる。神の願いが分かってくる。神の願いに答え祭らせて頂くという、いうならば信心が出来てくるんです。ね。どうぞ一つ、何故北町奉行やら、南町奉行があるかと。一つでありゃ円満のようにあるけれども、それではね、本当ないうならことは出来ない。
私共の生活の上にもそれがあるのです。この難儀が一つなかったらとか、ね、又はこれがです、なら商売がたきというような言葉でもってしますけれども、もしもう専売特許、そこだけしか、その商いが出来ないということになったら、どういうことに人間はなるでしょうか。勉強することも怠るでしょう。ね、いよいよ商品の吟味もいたしませんでしょう。ね、ここだけしか無いのだから。人間てそんなもんです、商売がたきがそこにある。同じような物がここにも売ってる。
ここにも売っておるからこそ出きるだけ良い品物を、出来るだけ安くと言う様に、致してまいりますように、私共もそうです。ね、おかげを受けるというてもそうです。いよいよ神様が力を付けて下さろうとする、いわゆる親心がです、ね、自分の願いの反対のことが起こったり、反対のものがそこにあったりすることになってくるのです。ですから、そのことが御神意であり、そのことが有り難いと分かった時に、初めて親の心が分かった信心ということになるのじゃないでしょうかね。
どうぞ。